『挟み撃ち』後藤明生

挾み撃ち (講談社文芸文庫)

挾み撃ち (講談社文芸文庫)

後藤明生はいわゆる内向の世代に属する作家。内向の世代に対してその語感から勝手に湿っぽくて陰鬱としたイメージを持っていたのだが、後藤明生は熱に浮かれたようにとにかくまくし立てる。そのドストエフスキーを思わせる饒舌っぷりにまず驚かされた。

この作品はなんとも奇妙な小説である。あらすじを聞かれれば、二十年前に着ていた外套を求めて奔走する主人公の一日というしかないのであるが、外套探し自体はどうでもよく、主人公の記憶を引き出す呼び水の役割でしかない。実際、最後まで外套の行方は杳として知れない。また序盤に主人公が過去10年間の引越し遍歴をご丁寧にメモ帳に書き出す(蕨宿〜現在住んでいる団地まで15ヶ所にのぼる)。これで「ははーん、外套を探すため、自らの遍歴を順に辿っていくことで過去の記憶を少しずつ明らかにしていくという趣向なのだな」と読者に物語のアウトラインを把握させたような気にさせておいて、それ以後このメモ帳は全く活用しない。というより、一番目の蕨にしか結局行かない。物語はレールから外れ、よすがを失ったまま終着駅の見えない荒野をひた走ることになる。さらに、途中で意図不明の長々とした回想に入ったり、紛らわしい記述で時系列を混乱させたり、作者は物語を転覆までさせようと妨害行為を繰り返す。

後藤名生はそうして物語の構造を意図的に分解し捻じ曲げる。一種の実験小説とも言えそうだが、この作品の凄いところはあえて調和を乱すことをやりながら、小説として完璧に調和の保たれているところである。軍人になろうとしながら願い適わなかった幼年時代、朝鮮で生まれ九州で育ったこと、高校生でも大学生でもない大学浪人、そして戦中と戦後を体験したこと。主人公=作者は二項のどちらにも帰属しきれない、すなわち宙ぶらりんの挟み撃ちの状態にことごとく置かれている。その対立軸に立って挟まれることで危機に瀕するアイデンティティーを、あえて物語構造を破綻させることで取り出して見せた手腕は神業というしかない。たしかに既存の小説の方法論から外れてはいるものの自己の深層を極限まで追求したこの小説こそ、これ以上ないくらい真っ当な小説であるといえる。