『槿』古井由吉

槿 (講談社文芸文庫)

槿 (講談社文芸文庫)

第19回谷崎潤一郎賞受賞作。タイトルはあさがおと読む。

素晴らしいというより凄まじい作品。つまらないだとかおもしろいだとかそんなものさしでは測り得ないところに古井由吉の文学はある。

何がどうなっているのか判然としない(僕の読解力の無さのせいでもあるが)濃密な霧に包まれたような文体で物語は綴られていく。そのため、少しでも気を抜くと目が文章の上を滑って行ってしまい意味が読み取れなくなってしまう。読み進めるためには極度の集中を強いられる。実際、読了するまでにかなりの時間が費やされた。文章を書くことは戦いであるが、読むこともまた戦いであるのだと知る。

文中にはしばしば「訝る」という動詞が出てくる。この単語に古井由吉のスタンスが現れているように感じる。古井由吉は、極力確定的な描写を避けている。定まらず揺らいでいるものを、こうだと決め付けて思考放棄することを許さない。極限まで粘り強い思考を行ない、曖昧なものは曖昧なまま留める。結果、文章は曖昧さであふれ、どことなく弛緩した脱力感(睡気もこの作品の重要なキーワード)が醸し出されることになる。しかし、そのように見えて実は異常な緊張のもとに神経は研ぎ澄まされ、決壊ぎりぎりのラインでこの文章は保たれている。狂気の深淵の限界に立ち、呑み込まれそうになりながら、かろうじて耐え忍ぶことで初めて見えてくる世界。古井さんは、この小説を脱稿したとき、もう小説は書かないと思ったらしいが、そこからもこの作品を書くことにいかに精神をすり減らしたかが伝わってくる。

古井作品にはなかなか軽い気持ちで手を出せないのであるが、精神力が充溢しているときに再び対峙したいと思った。