『袋小路の男』絲山秋子

袋小路の男

袋小路の男

一人の駄目男に12年間も惹かれ続けている女性の話。

やっぱり絲山秋子は小説巧いわ。ほれぼれするね。彼女は相当な読書家なはずなのだけど、それを文体として表に出さない。文章に詰め込みすぎないから彼女特有の切なさを帯びた抒情性が生まれてくる。そこが巧い。衒学に傾かなくても深みのある小説が書けることを彼女は理解している。衒学的な文章は語彙と知識を増やしていけば、それなりに様になったものを書けるような気がするが、絲山さんのようなシンプルな軽い文章で中身のあるものを書くのは案外難しい。下手したらできの悪いケータイ小説みたいに薄っぺらくなる危険を孕んでいるわけで、そうならないためには深い教養と豊富な社会経験と天性のバランス感覚が必要。それを奇跡的に併せ持っていたのが絲山秋子なのだと思う。

この作品では恋人でもない友達でもない関係の男女の交流が描かれている。なぜ女性は特に優しくもない甲斐性なしの駄目男によりによって惹かれるのか?男から見ると理解しがたい永遠の謎である。そんな本来まったく感情移入できないはずの主人公の日向子の心情が、絲山さんの手にかかると心に沁みてくる。二人の間にあるのは、恋とも愛とも言いがたい。二人には肉体関係はないし、少なくとも男の小田切の方は深い仲になるのを拒んでいる。かといって長年連れ添った夫婦のようにそういう感情を超越した絆を持つ間柄ってわけでもない。相手に対して嫉妬するし、いなくなるのを恐れている。なんなんだろうね、この関係。たぶん、言葉で表そうとすると一気に安っぽくなる。絲山さんはこの手のなんだかよく分からん間を表現するのは抜群に優れている。

ただ、「小田切孝の言い分」は蛇足だと思う。これは、表題作の「袋小路の男」が日向子の一人称で書かれたものであるのに対して、相手側の小田切孝の視点も交えて二人の関係を再構築したもの。最初に書いたように絲山さんのいいところは書かないところにあるのであって、これは手品のタネを明かされたようでちょっと興ざめだった。もちろん、それを狙ってこれをやったんだろうけど、二人の関係の客観的な判断は読者に委ねて欲しかった。

その意味では三篇目の「アーリオオーリオ」は良かった。内容は中学生の女の子が独身の叔父さんと文通するお話。中学生の女の子美由がなぜ執拗に叔父と文通を続けようとするのかよく分からなくて、もしかしたら学校で上手くなじめていないのかも、両親と仲が悪いんじゃないかと疑ってしまう。実際、手紙の文面からどことなくそんな感じが窺い知れるのだけど、そこには触れられないまま物語は終わる。この短編のいいところはそこで無理に書きすぎないから想像の余地が生まれ、不思議な余韻に浸ることができる。書かれていない部分にこそ絲山秋子の本質は宿っている。

結婚はしないのに、葬式はするのだ。私はあなたの骨の小さなかけらをひとつだけくすねることを考える。半分は乳鉢で擂ってカフェオレに入れて飲んでしまう。そしたら私の骨になる。あとの半分はポケットのなかだ。小さな袋に入れて、なにか不安なときや困ったときに触る。