『インディヴィジュアル・プロジェクション』阿部和重

インディヴィジュアル・プロジェクション (新潮文庫)

インディヴィジュアル・プロジェクション (新潮文庫)

どうしても表紙の猥雑さであるとかヤクザ、盗撮、拉致、拳銃などのキーワードのインモラルで過激な側面がクローズアップされてしまうところに阿部和重の不幸があるなーと思った。読んだら分かるのだけど、彼の小説はそういった軽薄さとは無縁であり、ストイックでこれ以上ないくらい生真面目だ。文章も極めて論理的で分かりやすい。実に優等生的小説だと思う。

本書は日記形式で物語が綴られていくのだが、日にちが進むにつれ次第に主人公のフリオは多重人格的なアイデンティティの分裂に悩まされることになる。このあたりは少し前に読んだオースターの『幽霊たち』と似たような構成になっている。フリオは、自分が関わった人間が自己の生み出した架空の存在なのではないかと疑心暗鬼に陥り、自我が崩壊し、さらに得体の知れない事件に巻き込まれていく。しかし、最後はあいつは自分自身ではないかと疑っていた人物が実際に存在することが分かり、自己を取り戻してめでたし、めでたしとなる。と思っていたのだが、解説で東浩紀が書いているようにハッピーエンドと思われたラストシーンも最後の最後に挿入されている感想と呼ばれる3ページの文章の存在で話は大きく変わってくる。これは、実は今までの日記はレポートという形での提出課題であり、それをマサキと呼ばれるフリオの師匠に当たる人物が読み終えて総括するという構造下にこの小説があったことを示している。

さらに多数の意識を同時に始動させ、うまく統御し得れば、より完全な状態に近づけるはずだが、君はあまりそれを望んでいないように思われる。だとすれば危険なことだ。

その感想の冒頭でマサキはこう述べるが、これはそのまま日記執筆者=作者の自己省察と受け取れる。小説は一人称を捨てるのが大変だというが、阿部和重は一人称小説に拘泥する作家としての気の迷いを不気味なほど客観的に戒めている。このあたりやはり実にまじめである。そして、感想はこう締めくくられる。

そろそろ君も、「みんなわたし」だと言い切らねばならぬ頃だと思うが、どうだろう?

この後、大群像劇『シンセミア』の執筆に着手することを考えると感慨深いものがある。