『腑抜けども悲しみの愛を見せろ』本谷有希子

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ

演劇的色彩が強すぎるように感じた。演劇や映画の方法論を用いて文学を構築することは時として思わぬ相乗効果を発揮する。だから、そういったアプローチは有用であるし、積極的に取り入れていってもらいたいが、いかんせんこれは演劇に引きずられすぎて小説を殺してしまっている。具体的に言うと、登場人物の内面描写が表面的で魅力を欠いていたように思う。ここでいう魅力というのは、もちろん人徳あふれる理想的な人間かということではなくて、描かれるのが実生活では決してお近づきになりたくない欠陥を抱えた人物であっても、なぜか共感してしまうパワーを秘めているかということ。どうも、この作品はエキセントリックな人物を造形することに力を注ぎすぎている。その結果、一見個性的であるのに、根源的なところで登場人物がみな個性がないという事態に陥ってしまっている。

これはおそらく、演劇と小説の方法論の違いによるところが大きい。思うに読むという行為はきわめて能動的な行為(物語を先に読み進める権限は読者が握っている)で、それゆえに読み手は各々の人物と一体化しやすく、どうしても共感という感情に重きを置く。そこで書き手は、表には現れない静的な部分である人間の内面に向き合い、追求していくことで読者の欲求に答えようとする。一方、演劇は眺めるものだ。舞台と観客席の間には空間的隔たりがあり、また目をそらしても関係なく物語は進行していく。それは同時に視線が拘束されないことも示している。そういった構造上、第三者的立場から物語を捉えやすい。なので、私たちは共感のフィルターを通すことなく物語と付き合うことができる。演劇では小説ほど共感できるかが作品の出来を左右しない。また、演劇は、一定の設定さえ決めておけば、無理に人物に肉付けを施さなくても、役者が補完してくれるという側面もある。脚本家は、人物の内面は役者が担当してくれるので、動きのほうやそれぞれの人物間の距離に人物造形の重点を置いているのではないだろうか。同じ人間を描いていてもきっと演劇と小説で求められるリアリティは異なるのだ。全編を通じてインパクトのある奇抜な行動に、姉のナルシシズムや妹の異常な欲求を写しだし、また家族内で置かれているポジションによって相対的にそれぞれの人物の個性を描こうとしているのはそういうことなのではないかと思った。だから、相対ではなく主体的かつ深層まで踏み込んだ小説的な人物造形の手法を確立できていなかったこの時点ではたぶん本谷さんの中では一人称よりも三人称のほうが書きやすかったはず。その意味では「生きてるだけで、愛」は小説家本谷有希子としての大きな一歩だったと思う。